文化/思想に見る桜 Part1

…私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧(よそお)いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。
自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いはけっして華美とはいいがたく、 その淡い香りには飽きることがない。

では、このように美しく、かつはかなく、風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを放ちつつ、永遠に消え去ってしまうこの花が「大和魂」の典型なのだろうか。
武士道 新渡戸稲造 奈良本辰也訳

●「花は桜木」になったのはいつ?

 今年も桜の季節がやって来た。公園では今まさに満開の桜の木の下で、シートを広げて宴を楽しむ花見客を見ることができる。
 桜は、いつからこれほど日本人に親しまれるようになったのか。
日本書紀には木花咲耶(このはなさくや)*注1という桜の神が登場するが、上代(じょうだい)に花と言えば、唐から渡来した白梅を指した。
 平安時代になると紀友則(きのとものり)が
久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ〔古今和歌集・巻二・春下・84、小倉百人一首収蔵〕
※意訳
こんなにも柔らかな光が降り注ぐ春の日に、はらはらと、どうして桜の花は散っていくのだろう。
と詠み、在原業平(ありわらのなりひら)が
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし〔古今和歌集・巻一・春上・53〕
※意訳
もしも、この世に桜が存在しなかったら、咲くのにじれ、散るのを惜しむこともなく、春は穏やかな気もちでいられただろうに。
とその心情を表したように、歌の題材として桜が選ばれることが増えて*注2くる。奈良時代の唐風への傾倒に対する反動からか、この時代には国風文化が育つのだ。
 いわゆる十二単の色目の一つである「桜襲(さくらがさ)ね」*注3という、紫または赤に白の薄い衣を重ねて表現した色目も貴族に好んで着用された。
また、「桜尽くし」「桜散らし」などの桜花の文様も時代とともに発展して行き、様々な調度品にあしらわれたという。
『海浜松桜蒔絵硯箱』
『色絵桜樹文皿』
『白綾地桜花扇面散し幔幕文様繍絞り小袖』

●花見の系譜

 812年〈弘仁3年〉嵯峨(さが)天皇神泉苑(しんせんえん)で催した宴を境に、観桜が恒例化していく。
武家が台頭しても風習は引き継がれ、時の為政者は盛大な花見を主催した。中でも、太閤秀吉の醍醐の花見は特に有名である。
『醍醐花見図屏風』
『東山遊楽図屏風』
 時は下って江戸時代には、庶民の娯楽、いや「ハレ」の行事として、今日のような形式*注4の花見が定番になった。
「花の宴 下女蒟蒻に よりをかけ」「髪を結ふ 側で重箱 あけて見せ」には、花見の支度にはずむ今と変わらない女性心理が覗く。
弁当に詰めたのは、ちらし寿司・卵焼き・煮しめ・なます・かまぼこなど。
御殿山の花見と花見弁当
隅田川や御殿山といった花見の名所には、酒・桜餅・てんぷらの屋台も出て、賑わいを見せた。
『江戸御殿山櫻宴之風景』
*注1 木花咲耶
木花之佐久夜・木花開耶とも。海幸彦と山幸彦の母。
*注2 桜が選ばれることが増えて
学者によって数え方が違うものの、万葉集の40首前後が古今集では100首前後に増加。
*注3 桜襲ね
色見本 桜襲ねの色見本
*注4 今日のような形式
群生、群集、飲食。江戸時代に桜の名所とされた上野・吉野山などでは、色々な種類の桜を配して一ヶ月ほど花見ができるようにしたという。

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文化/思想に見る桜 Part2

●桜を愛した文人・思想家

ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ〔山家集・77・西行法師〕
※意訳
もし叶うなら、二月〈旧暦〉の満月の日に桜の花の下で死にたいものだ。
 誰もが耳にしたことがあるだろうこの歌の作者・西行法師は、桜好きの歌人、それも「落花の美学」のもち主として人後に落ちない。
あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき〔山家集・67・西行法師〕
※意訳
山桜*注5の花への憧れはどうしたことだろう。散ったあとに心は我が身に戻って来るのだろうか。
ソメイヨシノ 桜好きが高じて、西行は桜の名所の吉野に庵(いおり)を構えて移住したと伝えられる。
 吉田兼好は『徒然草』の中で
吉野の花、左近の櫻、皆一重にてこそあれ。八重櫻は異樣のものなり。
※意訳
吉野桜にしても、御所(ごしょ)の桜にしても、花びらは一重です。八重桜はおかしいのです。
と八重桜を忌み、一重の桜を偏愛する。
 「もののあはれ」〈人間の抑えがたい情動、感動の現れ〉を提唱した国学者の本居宣長は山桜をことの外愛し、自画像
敷島(しきしま)の やまと心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
※意訳
大和魂とはどういうものだろうかと人に訊ねられたら、朝日に照らされて映える山桜のようなすがすがしい美意識だと私は答える。
という歌を添えた。宣長には桜のみを題材にした歌集『枕の山』もある。
 新渡戸稲造は『武士道』の中で、上の宣長の歌を引きながら、桜と大和魂を重ね「日本風土に固有のもの」として欧州の薔薇と対比させた。

●武士道の中の桜

武人の桜観
詩歌を吟じることが武士のたしなみになってからは、自然の移り変わりに我が身をなぞらえて表現することも王朝歌人の専売ではなくなった。
そして、そこには「もののふ」ならではの死生観が織り込まれる。
誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐の外に 花もこそ散れ〔大内義長〕
※意訳
人に誘われて死に追いやられたとしても、なにを恨むことがあるだろうか。その時が来れば、花は嵐が吹かなくても散っていくものだ。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ〔蒲生氏郷〕
※意訳
花の命には限りがあるのだから、風が吹かなくてもいずれ散るというのに、春の山風は気短に吹きつけてくる。

三芳野の 花は数には あらね共 散るにはもれぬ 山桜かな〔三好康俊〕
※意訳
三好の武士の中で数の内には入らない自分も、吉野の山桜のように例外なく散るようだ。

桜田の 花とかばねは さらすとも なにたゆむべき 大和魂〔佐野竹之助 水戸藩士・桜田門外の変没〕
※意訳
〈桜田は花の縁語〉例え、桜田門外に屍(しかばね)をさらすことになったとしても、どうしてこの大和魂を抑えられようか。

いたづらに 散る桜とや 言ひなまし 花の心を 人は知らずて〔森五六郎 水戸藩士・桜田門外の変のち斬首〕
※意訳
意味もなく散り急ぐ桜と人は言うだろう、散っていく花の本心を知ろうともしないで。

散るもよし 芳野の山の 山桜 花にたぐひし ものゝふの身は〔山田亦介〕
※意訳
侍の命を花に喩(たと)えて、散る時は吉野の山桜のようにありたいものだ。
 花の盛りが短く、枯れる前に枝から離れる桜の特性を、昔の日本人が「潔い」と称したことに不思議はない。
それが武士道における生に執着しないという観念とあいまって、「桜が散るように死ぬ」と喩えられるようになったのだろう。
上に挙げた歌がみな辞世(じせい)の句であることも注目に値する。
*注5 山桜
当時の桜の品種は主に山桜であり、これは花びらが小さく、花と葉がいっぺんに出る。ソメイヨシノが誕生したのは江戸末期と言われる。

投稿者 天羽絢子:02:31 | コメント (0) | トラックバック

文化/思想に見る桜 Part3

●桜を取り巻く思想

桜はどう見られているか
桜について書かれた最近の本を読むと、多くの人が「桜に対する思想」を意識していることがわかる。
例えば、「桜の花は軍国主義者によって、潔く散るという死の美学の象徴になったが、本来桜にもの悲しいイメージはなく、散り際が強調されることもなかった」という切り口がある。
『ねじ曲げられた桜 — 美意識と軍国主義 — 』大貫恵美子著、 『桜の文学史』小川和佑著などが代表例だが、恐らくは、「軍国の花」像を否定せんがために、桜の下での楽しい宴にのみ光を当てて、世をはかなんだりする文学はおろか意識さえも歴史上存在しなかったものとして扱っている。
明治維新以後の近代化の過程で日本が軍国主義に飲み込まれていったという前提に立ち、散華(さんげ)の実行者を「国家権力に利用されて死に追いやられた可哀想な人々」として憐れみ、桜にまつわる陰のイメージを「若いラジカルな革命家たちの桜観」と強く否定する。
武門のさくらが美しい死の象徴だといったのは明治以降の狂的なナショナリストの戯言にしかすぎない。

国防軍の擬似士族化の中で、さくらは王朝文化の華としてのさくらから、士族のというよりも武士の精神のさくら、その死を飾るべき国華というふうに全く異質なものに変質した。
都市文化の花、生命の輝きとしてのさくら、美しい女身の俤(おもかげ)としてのさくらは明治士族の手で、武の化身、死の花となった。
歌舞伎の演劇空間の虚構の悲愴美が宣長の国粋思想を吸収して、明治士族たちの手で国民皆兵を推進する国華としてのさくらを作り上げた。
小川和佑

●相反する桜の印象

生か死か、陰か陽か
 ここではまとめにかえて私見を書いてみたい。
小川氏は「平安びとは散るさくらにいのちのはかなさは見ていない。落花に無常を見るのは、中世以降わたしたちの心に影を落した無常観の結果」として都の桜を輝く生の象徴と定義するが、小野小町の「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」を引くまでもなく、宮廷が栄華を誇った時代でも無常観を著(あらわ)した歌は枚挙(まいきょ)にいとまがない。
空蝉(うつせみ)の 世にも似たるか 花桜 咲くと見しまに かつ散りにけり〔古今和歌集・巻二・春下・73、詠み人知らず〕
※意訳
桜は今生の空しさに似ている。咲いたと思いきや、もう散ってしまった。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂(う)き世になにか 久しかるべき〔伊勢物語・82〕
※意訳
散るからこそ、桜は素晴らしい〈引き立つ〉のだ。この世になにか永遠と呼べるものがあるだろうか。

はかなさを ほかにもいはじ 桜花 さきてはちりぬ あはれよの中〔新古今和歌集・巻二・春下・141、徳大寺実定〕
※意訳
はかなさというものを喩えて言うとしたら、桜花以外にあるまい。咲いては散る、世の中は哀れなものだ。
 また、武門の桜についても、小川氏が作中で言及している『仮名手本忠臣蔵』〈寛延元年成立・竹田出雲〉の十段目の名台詞「花は桜木、人は武士」で当時の価値観が提示されており、江戸初期には既に武と桜が結合していたことが見てとれる。
決して「明治以降の狂的なナショナリスト」が桜を「美しい死の象徴」に祭り上げたのではないし、「散るさくらに絶えてゆく生命を見る観念」が「八世紀以来の桜観になかった全く異質」だったのでもない。軍(いくさ)の庭に露と消えた武将が詠じた桜は、まさに「己の生命の終焉」だったのだから。
  氏が「きわめて視野の狭い強烈な自己愛」とこき下ろす本居宣長の敷島の〜の句は、「桜は日本らしいナショナルな花だ」と宣長が初めて思ったというより、遥(はる)か昔からあった感覚をはっきりと言葉にして確認したに過ぎず、梅に対して桜が日本らしいというのは、梅が渡来した時点で意識されたであろう。
「らしさ」は、特定の学者や為政者(いせいしゃ)がある日突然唱えて広まるのではなく、その共同体を構成する人々の意識、慣習の集積だ。個人の提案によって、一朝一夕に生まれるものではないのである。
桜に「武士らしさ」を見たのも、いて当り前だった士族が姿を消してそのエッセンスを抽出して伝える作業が行われた結果であり、長い間培われてきた感覚が母体になっているのは言うまでもない。
 また、現代においても、桜は「新しい命が萌出る春の喜びの象徴」であり、「祭りのあとの切なさの象徴」でもある、二面性をもつ。
清水(きよみず)へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき〔みだれ髪・与謝野晶子〕
※意訳
今夜は桜の咲く月夜、清水寺へ行こうと祇園を通ったら、すれ違う人がみななんて美しく見えるのでしょう。
 新古今和歌集に代表される貴族の洗練された風雅な世界も、幕末の志士が「最期の言葉」として志しを託した散華の歌も、どちらも歴史の真実である。
遠い山々のいくつもの源泉から流れ出た水が大河になるように、歴史はつながっている。
ものごとの一方だけをとり上げて他方をなかったことにするのは公平な視点と言えず、個人のイデオロギーを優先させた結果の「偏向」ではないだろうか。
…人はだれしもこの幸福な島国で、春、とくに桜の季節を京都や東京で過ごすべきだ。

色とりどりの風船、凧(たこ)、それに紙製の蝶が空中に飛びかい、その間、目も覚めるような美しい着物を着た幼い子どもたちが、色鮮やかな蝶のように、袂(たもと)を翻(ひるがえ)して舞っている。
世界の他のどの土地で、桜の季節の日本のように、明るく、幸福そうでしかも満ち足りた様子をした民衆を見出すことができようか?
明治日本印象記 アドルフ・フィッシャー

参考文献
維新志士回天詩歌集 藤田徳太郎
維新志士勤王詩歌評釈 小泉苳三
江戸っ子は何を食べていたか 大久保洋子監修
西行 高橋英夫
桜が創った「日本」—ソメイヨシノ 起源への旅— 佐藤俊樹
桜の文学史 小川和佑
祝祭日の研究 —「祝い」を忘れた日本人へ 産経新聞取材班
戦国武将の辞世 藤公房
ねじ曲げられた桜 —美意識と軍国主義 大貫恵美子
花見と桜 白幡洋三郎
武士道 新渡戸稲造 奈良本辰也訳
みだれ髪 与謝野晶子
明治日本印象記 アドルフ・フィッシャー
文様の名前で読み解く日本史 中江克己
靖国 坪内祐三

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