◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part1

●べっ甲の由来

 べっ甲を漢字で表すと、鼈甲。鼈(べつ)とはすっぽんのことだが、べっ甲の原料はすっぽんの甲羅ではなく、玳瑁(たいまい)*注1という熱帯のさんご礁にすむ亀である。
それならば、何故、「鼈甲」と呼ぶようになったのか。
長崎には、江戸時代に福の神のような霊力をそなえたすっぽんの姿を、ご禁制の玳瑁ではなくすっぽんの甲羅で彫刻して江戸の姫君に献上したという民話がある。
また、喜田川守貞は『守貞謾稿』の中で、
余が所聞何の年歟(か)、官命にて玳瑁の櫛笄を禁止す。其後奸商(かんしょう)が玳瑁と云ず鼈甲と名付けて販(ひさぐ)之。
今世の人は鼈と云を本名と思ふ人多り、又官にても往々高價鼈甲を禁ず事あり。鼈は土鼈(どべつ)にて乃(すなわ)ち俗に云すっぽん也。
玳瑁は珍宝の其一也。夫(それ)を奸商すっぽんに矯けて賣之んなり。
※意訳
私が聞いた話では、いつのことだったか、お上が玳瑁の櫛・笄を禁止した。
その後、ずる賢い商人が玳瑁とは言わずにべっ甲と名づけて、販売した。
今は鼈を本名だと思う人が多く、お上もよく高いべっ甲を禁ずるが、鼈というのは俗にいうすっぽんである。
玳瑁は珍宝の一つで、商人がすっぽんと偽って売ったのだ。
と述べている。
この守貞の指摘が今は定説となっているようだ。

●日本最古のべっ甲

 有史以来、日本人と亀甲の関わりといえば、まず占いの亀卜(きぼく)を思い起こすが、これは「和甲」(わこう)と称するアオウミガメの甲羅でタイマイではない。
 「日出(い)づる処の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す…」ではじまる国書を携え、小野妹子が海を越えた翌年の608年、隋の皇帝が贈った答礼品にべっ甲があり、日本に初めてべっ甲が伝来したとの説がある。
大日本人皇三十四代、推古天皇十五歳〈本朝女帝の始也〉聖徳皇太子攝政(せっしょう)の時、小野妹子臣を於隋の煬帝に遣、玳瑁を持渡。
玳瑁亀圖説・金子直吉
※意訳
日本国の皇統34代にして初の女帝・推古天皇の在位15年目、聖徳太子が摂政の時に、小野妹子が隋へ赴き、べっ甲が渡来した。
続いて、この玳瑁は「うちわ」で、聖徳太子ゆかりの広隆寺に収蔵すると記している。
 奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の御代(みよ)になると、遣唐使の出帆(しゅっぱん)や高名な僧侶の来朝が相次ぎ、大陸との往来が増えた。
正倉院に現存するべっ甲製の楽器*注2・如意〈儀式用の杖〉等の仏具・調度品は、ほぼこの時代の献上品との分析がある。
『螺鈿紫檀五絃琵琶』
『螺鈿紫檀琵琶』
法隆寺にも『玳瑁張経台』が伝わっており、こうした玳瑁張りの仏具と仏教の伝来は、大陸から日本に到る時期や経路が重なることから、つながっているといえよう。
 840年〈承和七年〉成立の『日本後紀』には「勅、玳瑁帯者。先聴三位已上著用」とあり、高官の腰帯*注3に玳瑁を装着していたことが窺える。
また、天神さまで知られる菅原道真(すがわらみちざね)の愛用品にも、象牙にべっ甲の飾りをはめ込んだ挿(さ)し櫛『玳瑁装牙櫛』がある。
王朝貴族の時代、玳瑁はその字の玉へんが示すとおり、まさしく希少な宝ものだった。
*注1 玳瑁
http://www.ne.jp/asahi/sphere/1/Gallery/TU/tu002.html
爬虫網‐無弓亜網‐カメ目‐潜頸亜目‐ウミガメ科‐タイマイ属
学名 :Eretmochelys imbricata
英名 :Hawksbill turtle
主に海綿・海藻・貝を食べ、熱帯のさんご礁に生息する。
全長50cmから150cmほど。
背中の甲羅は暗褐色と黄色のまだらで、13枚の鱗板(りんばん)が重なり合っている。
背甲を囲う小さな縁の甲は「爪甲」という高級品。お腹にも乳白色から淡黄色の薄い甲羅がある。
*注2 楽器
『螺鈿紫檀五絃琵琶』は聖武天皇のきさき、光明皇后の遺品という。
琵琶は4弦のものが多く、5弦の琵琶は珍しい。正倉院に現存する楽器は楽譜とともに伝わったと考えられる。
宮内庁楽部の箏(そう)いわゆるお琴の龍頭龍尾にもべっ甲が使用されているとのこと。
琴の爪・三味線のばちにも見られるように、べっ甲と楽器はなじみが深い。
*注3 腰帯
石の飾りがついた革製の帯を指す。石帯(せきたい)ともいう。
平安時代の貴人が着用した。官位に応じて使える石が決まっており、『延喜式』〈延喜五年より編纂〉は「…玳瑁(たいまい)瑪瑙(めのう)斑犀(はんさい)象牙(ぞうげ)沙魚皮(さめかわ)紫檀(したん)五位已上通用」としている。

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◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part2

●江戸の女性の最大の見栄

 べっ甲が装飾品として女性の憧憬(しょうけい)の的になったのは、江戸時代に入ってからだった。
有名な絵師は髪にあめ色のかんざし笄(こうがい)をさした遊女の図を次々と描き、べっ甲はその飾りの型とともに全国へ広まると、女性の羨望を誘ったのだ。
『当時全盛美人揃扇屋内花扇』喜多川歌麿
『錦絵』 歌川国貞
『仇競今様姿』 渓斎英泉
『江戸名所百人美女 花川戸』 歌川豊国
明暦年中迄は、大名の奥方ならでは、鼈甲は不用、遊女といへども、つげの櫛に鯨の棒かうがいにてすみぬ。
元禄の頃より、世上活達になりて、鼈甲もはやあきて、蒔絵などかゝせ、鼈甲も上品をえらび、価の高下にかゝはるといへども、金二両を極品とす
我衣 加藤史尾庵
※意訳
明暦年間までは大名の奥方以外はべっ甲を使わず、遊女といえどもつげの櫛と鯨の笄で装ったが、世情が華美になった元禄の頃にはただべっ甲をさすだけでは満足できなくなり、蒔絵を描かせたり、高くつくとはいえ、上質のべっ甲を選んだりした。
極上品は二両した。
これによると、元禄には既にべっ甲が珍しくなくなったため、質にこだわり、華やかな装飾をほどこしたものがもてはやされたという。
琉球*注4・大陸渡りの甲羅、ないしべっ甲の半製品は、出島のある長崎から京・大阪に、次いで江戸へ渡った。
工芸もまず長崎にはじまり、その技法が三都に伝播(でんぱ)している。
江戸には腕のいい飾り職人がおり、金銀蒔絵のほかに玉虫色に光る螺鈿(らでん)や彫刻をこらし、技の粋(すい)を競った。
『我衣』には「…早正徳の頃は、下女も鼈甲をさし、ぐるぐる結也」ともあることから、元禄から下ること23年の正徳年間にはかなりべっ甲が広まっていたのだろう。
 とはいえ、当時、べっ甲は舶来*注5の高級品であり、財力のある大名の妻女や丸山・島原・吉原の花魁(おいらん)、豪商のご用達。庶民には高嶺の花であった。
宝暦・文化年間のべっ甲の流行により価格はさらに高騰(こうとう)し、中には百両を超す贅を尽くしたと思しき櫛もあったという。
 1804年〈文化元年〉、江戸から長崎へ赴任した支配勘定方の太田南畝(おおたなんぽ)*注6は、
笄かんざしなど此節市中拂(はらい)ものに出候も、かんざしは二本にて六七百目などいう事にて、けしからぬ事に候
※意訳
この時期、笄やかんざしなどの支払いで長崎市中に出るが、かんざしは二本で600目から700目もする。全く、あまりに高い。
と手紙でこぼしている。
このため、抜け荷や盗みといった犯罪も起きた。
1751年〈宝暦元年〉には、遊女が出島の唐人屋敷からべっ甲の櫛を盗み出している。べっ甲の美しさに魔が差したのか。
髪は女の命というが、この時代のべっ甲は「さす」もので、櫛・かんざし・笄の代名詞にすらなっている。
中でも、女の魔よけとの言い伝えがある櫛は特別だったようだ。
四谷怪談のお岩が髪をすく櫛も母のかたみのべっ甲である。
お岩は体をふるわしながら鉄漿(かね)を付け、それから髪を櫛(す)きにかかったが、櫛を入れるたびに毛が脱(ぬ)けて、其の後から血がたらたらと流れた。
「やや、脱毛(ぬけげ)から滴る生血(なまち)は」
よろよろと起きあがって、「一念貫(とお)さでおくべきか」
南北の東海道四谷怪談 田中貢太郎
 べっ甲は明治*注7に至って、原料の調達すらままならなかった往時と比べると、ようやく身近なものになる。

江戸時代:べっ甲の歴史年表

*注4 琉球
喜多村信節が著した『嬉遊笑覽』には「琉球の俗常に玳瑁を簪(かんざし)とす。『中山傳信録』(ちゅうざんでんしんろく)に風俗をしるしゝ處(ところ)…」とあり、伝信録の5巻のかんざしのくだりでは「金最貴し。金の頭銀の柱に次ぐ。銀亦之に次ぐ。銅を下と為す。…民家の女玳瑁を以(もって)皆簪(かんざす)」と述べている。
*注5 舶来
原料の供給は出島に入る蘭船や唐船にたよっていた。
当時日本は鎖国しており、輸送手段も発達していなかったため、玳瑁の入手は困難だった。
*注6 太田南畝
南畝は蜀山人(しょくさんじん)の号でも知られる文人で「玳瑁の くしの光や 硝子(びいどろ)を さかさにつるす 燈籠の鬢(びん)」の歌も残している。
*注7 明治
幕末までべっ甲のとり引きは原料をもち渡るばかりだったのが、明治に入ってからは欧米人に洋風の工芸品を売るようになる。
長崎では寄港した軍艦・客船の乗員がみやげに買って行ったという。

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◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part3

●秘薬としてのべっ甲

 べっ甲の利用は装飾品だけに留まらなかった。
漢方薬の辞書『本草綱目』(ほんぞうこうもく)*注845巻介部には、色々な亀の薬効が載っており、玳瑁の項もある。
本草によると、生の甲羅を削った粉には鎮静・解熱・降圧の効果がある。
倹約令〈奢侈(しゃし)禁止令〉により玳瑁をとり引きできなかった江戸初期でも、こと薬種に限っては認められていた。
現在も中医学では、玳瑁のみならず亀の甲羅を亀板(きばん)、すっぽんを土鼈甲、または別甲といって処方しているが、これらの亀は各々用法が分かれている。
もっとも、最近の和漢〈日本で発達した漢方〉は生きもの由来の薬種を避ける傾向にあるらしく、玳瑁はおろか亀の利用もすたれてしまった。

●職人の技巧 火と水と力と

あめ色にあくがる
 今でこそ、べっ甲の最上品は斑点のない白甲だが、正倉院の工芸品に黄色の甲は少ないという。
1862年〈文久二年〉発行の『玳瑁亀圖説』というべっ甲図鑑の時代時代の髪飾りの描写を見ると、 元禄はもとより、亨保年間にも「茨布」(ばらふ)と呼ぶべっ甲独特の褐色と黄色のまだら模様が主だったのが、技術の進歩と原料の爪甲(つめこう)の供給によって、天保年間には琥珀のように美しい黄一色へと移っている。
また、同書には、
色合最上の物は、こ(こ・玉へんに逓のつくり)珀の上品に金珀(きんぱく)云物有。是と同しうして薄黄に透通るきみ有り。
上晶(ぬき)甲と云は白身多く、黒斑少し。其の替(がい)、貳百五六拾替より三百替、四百替也。此の外以上の替の甲も稀に扱事有之。
※意訳
最も色あいのいいものは、上質な琥珀に金箔をかけたような色味で、薄黄色に透きとおっている。
上晶甲というのは、白い部分が多く黒斑は少ししかない。位は250か60替から300替、400替まででそれ以上の甲もまれに扱うことがある。
ともあることから、白甲が最上品になったのはどうやら江戸時代と言えそうだ。
べっ甲ができるまで
べっ甲のネックレス  ここで、べっ甲の昔ながらの製法を見ておこう。
基本は型抜きと熱による接着、みがきである。
甲羅を万力で平らにのばし、型に合わせて切り抜いたあと、厚みを出すため、あるいは複雑な造形を表現するために素材を重ね、熱したこて・鉄板で甲を張り合わせる。
べっ甲は天然の膠(にかわ)分を含むため、水と熱でくっつく性質がある。 その後、鮫皮・角粉(つのこ)・鹿皮・椋(むく)の葉等で丹念にみがくと独特の光沢が出るのだ。
 白甲には透明に近いものから橙色まで色の濃淡があるが、結合時の熱の入り方で色をかえられる。熱くすればするほど黄色がかり、反対に温度が低いと淡色に仕上がる。
職人の経験と門外不出の技法がものをいうのだろうか。この調節に失敗するとこげてしまうという。
まるで「べっ甲あめ」だが、もともと透明の甲を濃い橙色にするような劇的な操作は期待できないとのこと。
べっ甲の真贋
 宝石の宿命というべきか、「張りべっ甲」〈べっ甲と水牛の角や馬のひづめなどを卵白で張り合わせる技法〉が誕生するや、偽造品が氾濫することになる。
『嬉遊笑覽巻一下 容儀』に曰く、「べつかう高價にて寛保頃細工人に上手出来て水牛の色よきべつかうの黒斑を入て上べつかうのまがいに賣と云れど、朝鮮べつ甲にてまがい作る事はその先よりあり」。
前出の『守貞謾稿』の女扮の巻きでは、偽べっ甲について詳しく解説している。
朝鮮鼈甲は贋物にも非(あら)ず。一種の下品玳瑁なり。贋造(がんぞう)には牛角を以てし、弐は馬爪を以て贋る事也。
…文政末・天保初頃より馬爪の櫛・笄・簪(かんざし)とも表を薄き鼈甲を以て包み製す。故に甲賣も真偽を弁じかたき迄に模造せり。
※意訳
朝鮮べっ甲は偽ものというよりは、一種の低質な玳瑁である。牛角か、馬爪を用いて偽造する。
文政末・天保のはじめ頃から馬爪の芯の表面に薄いべっ甲を張った髪飾りができた。これによって、甲売りも真偽の判断がしにくい精巧な模造になった。
 ちなみに、本べっ甲と偽ものの見分け方を江戸べっ甲の職人に聞いたところ、磯貝鼈甲磯貝剛氏は「色と感触」を挙げ、赤塚べっ甲赤塚顕氏は「匂い」を挙げた。
私見では、白甲は落ち着いた色合いで彩度がそれほど高くなく、内からにじみ出るような照りがあり、光にあてると深く輝く。茶褐色から黒褐色の黒甲には、重厚で品のいいつやがある。
また、色に関わらず本べっ甲は密度が高く締まったような固い質感が特徴だ。かすかにひんやりとしたさわりごこちは強いていうと石に近い。この髪飾りがかつて「頭痛とり」の異名をとったのもうなずける。
亀裂や継ぎ目のないなめらかな肌あいも確認したい。
 但し、「細工人に上手出来て」ではないが、本ものと区別がつきづらい精巧な偽造品もあふれているので、鑑定は専門家に任せるのが確実だろう。
*注8 本草綱目
明の李時珍撰の漢方薬学全集。ありとあらゆる薬種の主治・処方等を解説する。
日本でも幕末までは権威があり、翻訳本が版を重ねた。
薬用としての玳瑁は宋にはじまる。

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◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part4

●べっ甲工芸の今日

 現在、CITES〈ワシントン条約〉では玳瑁を「近未来に全滅する危険がある」としてCRに指定、最も厳しい制約下で保護している。
1994年、日本は条約に同意して正式に輸入を止め*注9、べっ甲の原料は調達できなくなった。
べっ甲職人はそれ以前にためた甲羅でこ口をしのぐ状況が続いている。
経済産業省によると、2003年の国内のタイマイ在庫量はおよそ80トン。底をつくのは時間の問題だ。
鯨のように調査の名目で捕獲した玳瑁のとり引きも、関係者は「ない」と口をそろえる。
日本べっ甲協会の話では、象牙のようにたとえ限定でも規制を緩めることと、タイマイの人工繁殖を目標にしているが、この条約の背景には各国の様々な思惑があるだけにやすやすとはいかないだろう。
繁殖も政府が予算を割いているものの、亀は寿命が長く研究に時間がかかるため、まだ実用には至っていない。
「今後の原料の確保は?」と方策を訊ねると、職人は「なくなったらおわりだよ」と笑った。
乱獲には問題があるとしても、べっ甲工芸の灯火(ともしび)が消えるとしたら、残念なことだ。
 べっ甲工芸の将来を考えると、原料の確保以外にも不安が残る。
伝統工芸ではよく耳にする話だが、後継者がおらず、それまで積み上げて来た高い技術の担い手がいないというのだ。
今や若者の多くがべっ甲を斑模様としてしか認識していない。手にとる人も少なくなった。
需用がなくなれば供給もなくなるというごく当たり前の原理がここにも覆いかかる。
 べっ甲を模した商品は巷(ちまた)を席捲(せっけん)している。こうした代用品は入手しやすいばかりか、安くて扱いも楽だ。さらには一見して真贋がわからない。
今、楔(くさび)を打っておかなければ、やがて若者が壮年になり経済力をつけても、べっ甲にふり向きはしないだろう。
 大正時代の名工・江崎栄造*注10氏の渾身(こんしん)の作『岩上の鷲』(がんじょうのわし)の写真を見ると、あたかも魂が宿っているように鷲の肢体に力がみなぎり、次の瞬間には羽ばたきそうなまでに生き生きとしている。
作品は1915年のサンフランシスコ万国博覧会で優勝の快挙をなし遂げた。この知らせに長崎は湧き、べっ甲職人はますます腕をみがいたという。
べっ甲を美術品に昇華させた江崎氏は、後年、技法の伝承を目的とした長崎県指定の文化財の栄誉を受けることになる。
氏が芸術という新しい道を模索してべっ甲工芸に風を起こしたように、伝統を守りながらも、時代に即した工夫をこらせるのではないか。

 べっ甲をながめていると、あめ色の透きとおった世界に吸いこまれそうになる。日にかざせば、光を反射して、古来より日本人を魅了して来たまばゆい輝きを放つ。
そして、べっ甲工芸には、このまま衰退へ向かうのを運命として諦めるには惜しい技術の研鑽(けんさん)と長い歴史とがある。

 時代のうつろいとともに失った記憶 —べっ甲の魅力を思い出させるには、販路の拡大や新素材との融合といった関係者の努力が不可欠であろう。
*注9 正式に輸入を止め
日本は条約への署名をしていなかった1992年から玳瑁の輸入を停止している。
*注10 江崎栄造
長崎の職人で江崎べっ甲店の六代目。

参考文献
浮世絵美人くらべ ポーラ文化研究所
燕石十種第一巻 岩本活東子編
江戸時代図誌25 長崎・横浜 越中哲也、大戸吉古
嬉遊笑覧 喜多村信節 成光館出版部
京都江戸・職人のわざ 阿部文枝文 川西正幸写真
原色日本の美術18 風俗画と浮世絵師 小学館
正倉院年報第十三号 宮内庁正倉院事務所
玳瑁亀図説:天・地復版 金子直吉 東京鼈甲組合連合会
玳瑁考 越中哲也
ながさきの空第十四集 長崎歴史文化協会
長崎べっ甲物語 橋本白杜
日本の美術3 結髪と髪飾 橋本澄子編
日本べっ甲文化資料館 社団法人日本べっ甲協会
守貞謾稿 喜田川守貞 朝倉治彦編
谷中根津千駄木其の七十号 谷根千工房

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