◇粋の系譜 魅惑のべっ甲―日本べっ甲史― Part2●江戸の女性の最大の見栄べっ甲が装飾品として女性の憧憬(しょうけい)の的になったのは、江戸時代に入ってからだった。有名な絵師は髪にあめ色の櫛・かんざし・笄(こうがい)をさした遊女の図を次々と描き、べっ甲はその飾りの型とともに全国へ広まると、女性の羨望を誘ったのだ。 ![]() 『錦絵』 歌川国貞 『仇競今様姿』 渓斎英泉 『江戸名所百人美女 花川戸』 歌川豊国 明暦年中迄は、大名の奥方ならでは、鼈甲は不レ用、遊女といへども、つげの櫛に鯨の棒かうがいにてすみぬ。これによると、元禄には既にべっ甲が珍しくなくなったため、質にこだわり、華やかな装飾をほどこしたものがもてはやされたという。 琉球*注4・大陸渡りの甲羅、ないしべっ甲の半製品は、出島のある長崎から京・大阪に、次いで江戸へ渡った。 工芸もまず長崎にはじまり、その技法が三都に伝播(でんぱ)している。 江戸には腕のいい飾り職人がおり、金銀蒔絵のほかに玉虫色に光る螺鈿(らでん)や彫刻をこらし、技の粋(すい)を競った。 『我衣』には「…早正徳の頃は、下女も鼈甲をさし、ぐるぐる結也」ともあることから、元禄から下ること23年の正徳年間にはかなりべっ甲が広まっていたのだろう。 とはいえ、当時、べっ甲は舶来*注5の高級品であり、財力のある大名の妻女や丸山・島原・吉原の花魁(おいらん)、豪商のご用達。庶民には高嶺の花であった。 宝暦・文化年間のべっ甲の流行により価格はさらに高騰(こうとう)し、中には百両を超す贅を尽くしたと思しき櫛もあったという。 1804年〈文化元年〉、江戸から長崎へ赴任した支配勘定方の太田南畝(おおたなんぽ)*注6は、 笄かんざしなど此節市中拂(はらい)ものに出候も、かんざしは二本にて六七百目などいう事にて、けしからぬ事に候と手紙でこぼしている。 このため、抜け荷や盗みといった犯罪も起きた。 1751年〈宝暦元年〉には、遊女が出島の唐人屋敷からべっ甲の櫛を盗み出している。べっ甲の美しさに魔が差したのか。 髪は女の命というが、この時代のべっ甲は「さす」もので、櫛・かんざし・笄の代名詞にすらなっている。 中でも、女の魔よけとの言い伝えがある櫛は特別だったようだ。 四谷怪談のお岩が髪をすく櫛も母のかたみのべっ甲である。 お岩は体をふるわしながら鉄漿(かね)を付け、それから髪を櫛(す)きにかかったが、櫛を入れるたびに毛が脱(ぬ)けて、其の後から血がたらたらと流れた。べっ甲は明治*注7に至って、原料の調達すらままならなかった往時と比べると、ようやく身近なものになる。
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